1940年敬请关注!
简介:「海軍爆撃隊」に続き製作された本作品もまた陸軍航空部隊の活躍を描いた作品である。 当時、陸軍航空部隊は全支制空の覇業、満州、蒙国(モンゴル?)上空にて敵に勝利し華々しい成績を上げていた。 そこで森岩雄氏はこの成果を文字媒体でなく大スクリーンの映画にして如何にして陸軍の精鋭たちが勇敢に敵に立ち向かったか、そして日本の戦闘精神は如何にして培われたかということを知らしめるために本作品が企画されたという。 そんなわけで本作品には陸軍がかなりの援助をしておりこれによって陸軍がより充実することを願いを込めて製作した。 特撮的には「海軍爆撃隊」のように特撮シーンは多くなく僅かに墜落シーンとスクリーンプロセスぐらいのもので少ないのだが本作品は本物の飛行機を駆使した実際の空中戦がダイナミックな出来映えでそれに促して特撮シーンが挿入されたという感じである。 本物による実写シーンが長いために挿入される特撮シーンは違和感を憶えがちであるが本作品では実写に挿入してもさして違和感もないほどの見事さであった。 空中戦は実写によるものと書いたが爆弾投下シーンはミニチュア特撮でありこちらも実写とは区別がつかないほどの完成度であったがかなりの苦労があった。 爆弾が地上につくまでのシーンが欲しいというオーダーがあったのだがミニチュアの爆弾の大きさから円谷監督は検証しそれが最低でも30センチ以下では不可能ということが判明した。 30センチ以下にすれば焦点がボケてしまい爆弾投下シーンか判らなくなるからである。 そして落下シーンを撮るには相当高い場所からミニチュアの爆弾を投下しなければその特撮シーンが説得力のないものになってしまうので円谷監督は一案を講じた。 後の「地球防衛軍」や「宇宙大戦争」でのロケット上昇シーンに使われることとなる吊橋を使うことにしたのである。 ここから投下すればある程度の高さもあり投下シーンがリアルな物になったのである。 さて企画は昭和13年3月に行われ「海軍爆撃隊」同様に北村小松氏が原作を担当することになり準備期間、熊谷陸軍飛行学校に行き半年間に渡り軍隊生活を送り原案が考案された。 そして同年9月、原作を執筆することとなり翌年5月にタイトルを「燃ゆる大空」に決定したという。 一方で見事な実写の空中戦を撮影することになった宮島義男氏も昭和13年5月に北村氏に続いて軍属となり漢口攻略戦に参加し半年に亘り空中戦を撮影したというから既に脚本が上がる前から製作がなされていたことが判る。 ちなみに脚本が執筆されるのは昭和14年7月からなので充分な製作期間があったというのは時間に追われることとなってしまう後の特撮事情からは随分と羨ましい限りである。 宮島氏はカメラを飛行機の主翼にくくりつけるという当時としては斬新な試みを行っており横転、逆転しながら敵を追うというダイナミックな構図を見事に表現した。 そして本作品は9月の完成後、文部省推薦映画となり児童推薦映画ともなるほどの話題作となったのである。 その結果、当時としては異例とでもいうべき5週ロングランを記録するほどのヒット作品となり昭和15年度の日本カメラマン協会賞と特殊技術賞の二つを獲得した。 ちなみに現存している映像は戦地慰問用に短縮されたもので全長版のフィルムは現存しないか行方不明となっている。…